「寄り添う」 校長 古賀誠子
校長 古賀 誠子
「寄り添う」という言葉、本校ではよく耳にする言葉です。とても暖かい言葉ですね。自分が困っているとき、悩んでいるとき、誰かが自分に寄り添ってくれたら、大きな力になります、心強いですね。そして、困っている人、困難の中にある人、悩んでいる人、隣人に「寄り添う」ことができる自分でありたいと思います。では、私たちは、具体的にどう行動したらよいのでしょうか。先日、シスター入江とこの言葉「寄り添う」について話をしました。シスターはこう言われました、「寄り添うとは、その人のそばにずっといること。」
東日本大震災から今年の3月11日で10年になりました。朝日新聞は、震災翌年の2012年、岩手、宮城、福島3県の仮設住宅などで暮らす人達に会い、『いま伝えたい千人の声』として紹介しました。当時、34万人が避難生活を送っていました。あのとき取材した記者が、出会った人を再び訪れた時の話です。
以下、令和3年3月7日の朝日新聞からの記事です。
「宮城県名取市の閖上(ユリアゲ)は、赤貝で知られる漁師町だ。漁港に近い標高6.3メートルの日和山に上ると、真新しい水産加工団地や、広い道路、964人が犠牲になったことを記した慰霊碑が見える。・・・・・・
9年前、岩田さんは閖上から3キロほど離れた2Kの仮設住宅に住んでいた。閖上で家を失った人が多い仮設団地で、当時高1の長男に毎朝2つの弁当を作っていた。一つは長男に、そしてもう一つは津波で両親を亡くした同級生に。毎日たっぷりご飯を詰めた。
その短い記事を読んだ新潟県長岡市の人から、80キロの米が届いた。電話やメールでやりとりを重ね、新潟県中越地震の経験や、息子が神戸で阪神大震災に遭ったことを聞いた。米は千葉からも届き、仮設の近所の人とも分けた。「食べ盛りの男の子2人にご飯を軽く盛るわけにはいかない。助かりました。」米は昨年9月まで8年間届いた。10年前の3月11日、閖上中を卒業した長男と、午後から公民館での謝恩会に参加した。同じ高校に進む親子数人で「また入学式で」と言葉を交わした直後、震度6強の揺れが襲った。1時間ほど後、閖上に津波が押し寄せ、岩田さんの両親は避難の途中で巻き込まれた。母は助かったが、右半身にマヒがある父は、閖上小の校庭についたところで、濁流にのまれた。閖上中の生徒14人もなくなり、謝恩会で目の前に座っていた友人は、行方不明になった。
あれから岩田さんは、お弁当をいつまで作ったのだろう。改めて尋ねると、2人の卒業まで作り続けたといった。「もし私が亡くなったら、別のお母さんがそうしてくれたかもしれない。」生と死が紙一重で別れたあの日、誰がどうなってもおかしくなかったと考えたからだ。」
「18歳のわたくし」、生徒手帳の5ページを開いてください。「高める」の4番をご一緒に読みましょう。福岡海星女子学院の生徒は、『人と共に人のために生きようとすることが、自己を成長させ、世界の平和につながることを知っています。』さあ、この記事を読んで、あなたが今できる「寄り添う」について、チャペルノートに書いてみてください。