「祈り」 校長 古賀誠子
先月行われた聖フランシスコの朝礼で、みなさんの「祈り」をのせた、平和の象徴である鳩のパネルを読み返していました。「これ以上、大切な命がなくなりませんように」「一秒でも早く、ロシアとウクライナの人々が、笑顔で生活できますように」「早く自分のふるさとにみんなが帰って行くことができますように」「大人の事情に、無力な子供たちを巻き込まないでほしい」など、みなさんの熱心な祈りに心打たれます。宗教委員の人たちが中心となってつくったパネル、作業の時間もかなりかかったことでしょう。皆の思いが一つとなって、今本校の玄関で、「神様に揺さぶりをかけるほどの」祈りとして、存在感を放っています。
「平和をつくる」という言葉は、一般的にはあまり聞かない言葉ですが、みなさんの感想を読ませていただくと、その意味をよく理解できているように思いました。チャペルノートを見ていると、身近なところから平和を実現したいという感想がとても多かったように思います。まずは、兄弟、姉妹、両親、祖父母、そして学校のお友達や先生との間に平和をつくっていきたいという言葉がたくさん聞かれました。身内やお友達ならと簡単だと思うかもしれませんが、意外とできないものです。身近なところで平和を実現していくためには、まずあなた自身が自己中心的な考えを捨て、感謝や愛をあらわす心からの言葉と行いで、人とつながっていかなければなりません。今日も平和に向かって努力する人であってほしいと思います。
さて、今日は、先週納富先生のお話にもあった「祈り」について、ご一緒に考えてみましょう。みなさんは、もちろんこれまで何度も祈ってきたことはあるでしょう。たとえば、亡くなった人の遺影にむかって、「今日も一日守ってください」と手を合わせて祈る。お墓の前で、家族の無事や成功を祈る。試験に合格したい、試合に勝ちたいとき、天に向かって祈る。あるいは、お正月に、神社やお寺にいって一年の無病息災を祈る。困難や試練にあった時に、「神様、どうか助けてください」と涙を流して祈ったこともあるでしょう。人は何らかの形で、自分の存在をはるかに超えるものにむかって「祈る」存在です。
ウクライナで戦争が勃発したのは、今年の2月24日未明のことでした。それからもう8か月が経過したことになります。突然の攻撃に驚かされ、家を焼かれ、故郷を離れざるを得なくなったウクライナの人々はもちろん、信じがたい思いでロシアによるウクライナ侵攻のニュースを聞かされ、心を痛め続けている私たちも、また私たちだけでなく、世界中の人々も、さらにウクライナに攻撃を仕掛けたプーチン大統領の膝元のロシアの人々をも含めて、数多くの人々が、「平和を求める祈り」を祈り、一刻も早い停戦を求めて祈ってきました。
自分たちにできることは何もないけれど、祈ることはできる。だから祈ろうと言ってきました。そのように言う反面、時間だけが経っていって、いまだに戦争は終わる気配すらない。むしろ悪化しているのを目の当たりにすると、祈っても果たして私たちの祈りが神様に聞かれるのだろうかという疑問を感じている人もいるのではないでしょうか。
神様は私たちの祈りを聴いてくださるのでしょうか。もしも、わたしたちにできることは祈ることしかないとすれば、その祈りがなかなか聞き入れてもらえないのなら、私たちは無力感、あるいは絶望感を抱きます。私たちの祈りをローソクにたとえれば、ローソクがだんだんと短くなっていって、ついには燃え尽きるように、私たちの祈りの火もいつしか消えてしまうのではないでしょうか。
しかし、聖書のルカによる福音書18章にはこう書かれています。「気をおとさずに絶えず祈りなさい。」また、今年の9月のシスター入江の「シスターのお願い」の中には、「神様に揺さぶりをかけるほどのお祈りを皆さんにお願いしたい。祈りは必ず聞き入れられます」とあります。
あらためて、ロシアとウクライナの人々のために、祈りましょう。一日の中で、ひとり静かな時間を持ち、心を静めて祈ってください。今、この瞬間も、失われていく命や、ふるさとを追われ、涙を流している人々のことを決して忘れてはいけません。皆で書いた一枚一枚の平和のための祈りが、聞き入れられるようにと、気をおとさずに絶えず祈りましょう。
最後に、バレンタインスーザの「そよ風のように生きる」のなかで、このような言葉がありましたのでご紹介します。
「主に願いながら、疑っているなら、その祈りには力がなく、主は私たちの生活に入ってこられません。祈りながら心を散らしているのと同じことで、祈っていることにはならないのです。」『そよ風のように生きる~旅行くあなたへ』より
今日も、よき一日をお過ごしください。