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講堂朝礼〜生徒へのメッセージ〜

Messages for Students

第1学期始業式 校長 古賀誠子

聖書朗読 マタイによる福音書 7章7節~12節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪いものでありながらも、自分の子どもには良いものを与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたは人にしなさい。これこそ律法と予言者である。」

桜の開花とともに、温かい春の風が吹き、新しい1年が始まりました。本日の聖書朗読の箇所について、共に考えてみたいと思います。この聖書の箇所は、多くの人によく知られている有名な聖書の箇所です。なにか大きな課題が自分の中にあるときに、「このように実現しますように」とか、「これが手に入りますように」と自分の願いを神様に祈ることは、皆さんも経験があるのではないでしょうか。今日のみ言葉は、祈りを通して、「求めることによって、与えられ、門をたたくことによって、開かれる」と、明らかにしています。

さて、どんなに求めても、どんなに願っても、「与えられない」「扉が開かれない」時があって、憤りを感じたことはありますか。祈っているのに、物事が思った通りに、願ったとおりに実現されていかないことがあります。そのような時、わたしたちは、こんなに真剣に祈っているのに、こんなにお願いしているのに、何も起こらない、願ったものを手に入れることが出来ないと嘆き、苛立ちを覚え、「神様は本当にいらっしゃるのか、私の願いを聴いてくださっているのか」と疑ってしまうことがあります。みなさんは、そのような経験を多かれ少なかれしたことがあると思います。このような時、私たちはどのように考えるべきでしょうか。イエス・キリストは、これを人間の親子にたとえて、分かりやすく説明しました。「あなたがたのだれがパンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」完全でない人間の親でさえ、我が子には良いものを与えようとします。それならば神様は、私たちに最善のものを与えてくださるのは、当然のことであると聖書は語っています。「まして、あなたがたの天の父は、求めるものには、良いものをくださるにちがいない。」私たちの祈りは、時に欲深く、この世での成功だけを求めて、自分の願いばかりを口にすることがあります。そして、それが手に入らないと、怒りを覚え、自信がなくなり、つい不平、不満を言ったりしてしまいます。昨年の講堂朝礼で、お話ししましたが、皆さんは覚えているでしょうか。聖書エレミア書29章の言葉を聞きましょう。「しかし、わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり,あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き,わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。あなたがたが心を尽くして、わたしを捜し求めるなら,わたしを見つけるだろう。」「好き、嫌い」ではなく、「できる、できない」でもなく、人間の想いを超えたところで、神様の計画は働き、あなたに最善のものが与えられるのです。それを信じることができる私たちでありたいと考えます。

さて、この聖書の箇所は、もっと深く読んでみると、「求めよ、さらば与えられる、叩けよ、さらば開かれる」、つまり、「与えられる」「開かれる」と受け身形なたの祈りの先に、「与え」、「開く」方がおられるということです。とても深い質問になりますが、あなたは、人生の幸せ、喜び、満足、生きがいを、誰か人に求めていませんか。家族、兄弟、姉妹、先生、友人でしょうか。たしかにこれらの人々との交わりは、自分を成長させ、そこで芽生える友情や愛情によって、私たちは自信を得て、豊かな人生へと導かれていくことでしょう。人生の中で、不可欠な人間関係です。しかし、もっと踏み込んで考えてみましょう。人に多くを求めて、永久的にあなたの心は本当に満たされるのでしょうか?この聖書の箇所は、「なせばなるのだから、ひたすら頑張って努力しなさい。」といって、私たちを叱咤激励しているわけではありません。受身形で書かれている理由をもう一度深く考えてみましょう。「与えられる、開かれる」それは、あなたが求めれば、あなたが叩けば、与えてくださるかた、開いてくださる方がおられる。つまり、「神様が、あなたを愛して、あなたに最善を与えようとして、扉の向こうで待っていますよ」という意味なのです。人生の幸せ、喜び、満足、生きがいを神に求めることができるようになれるといいですね。

そうして、最後にこう書かれています。「だから、人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」これまでの聖書の箇所を読んでいると、神様と自分の一対一の会話と思っていたら、なんと最後に隣人が出てきました。お隣の人の顔をしっかり見てみてください。お隣に座っているお友達の名前をフルネームで言えますか。そして、あなたは、お隣に座っている人が、今、何を求め、何を探しているか知っていますか。神様が、最善のものを私たちに与えてくださるように、私たちも隣人に対して、同じようにしなさいと言うのです。つまり、わたしたちも、隣人に対して「扉を開き」「与える」人とならなければなりません。

新しい学年になり、新しいクラスになりました。担任の先生方も気持ちあらたに、みなさんの高校生活のお手伝いを精一杯させてもらいます。それぞれコースによって、専門の分野の勉強が深まっていきます。自分の専門の分野を鍛えること、それは、隣人に対して「扉を開き、与える」人になるための一歩と言えます。友人、先生、家族、すべての隣人に、「最善のもの」を与えることができる人であってほしいと願います。

新しい年度も、共に学び、共に遊び、共に祈る私たちでありたいと願います。互いに切磋琢磨しながら、自分を「高める」あなたでありますように。

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