「あなたを育てた手」校長 古賀誠子
「人間が幸せになるために何が必要かと問われたら、わたしはやはり「家族の愛」と答える。有り余るほどの財産やきらびやかな地位を手に入れ、たくさんの人から尊敬されたとしても、家族から愛されない限り決して幸せになることができないからだ。身近にいて自分のことを隅々までよく知り、そのうえで、弱くて欠点だらけの自分をありのままに受け入れてくれる家族。その無条件の愛を実感したときにだけ、わたしたちは心の底から幸せを味わうことができる。
イエス・キリストは、貧しさの中で誕生した。生まれたばかりの幼子イエスは、家畜のよだれで汚れた小さな飼い葉桶に寝かされ、それをヨセフとマリアが見守っている。物質的な豊かさとはまったく無縁の誕生だが、そこには確かな幸せがある。ヨセフは妻であるマリアを心の底から信頼し、マリアの身に起こったことをすべて受け入れている。マリアも夫ヨセフを心の底から信頼し、ヨセフに自分と子どものすべてを委ねている。そして、二人の心には、神から預かった幼子イエスを自分たちのいのちに替えても守り抜く覚悟がある。何も持っていなかったとしても、誰からも祝福されなかったとしても、この家族の心が幸せで満たされていたことは間違いがない。」 『ぬくもりの記憶』片柳弘史より
先日、何気なく携帯電話に流れてくる画像を見ていると、このような写真に出会いました。『ナショナル・ジオグラフィック』からのものです。そこには、二人の手が写されていて、一つ目は、年を取って、血管が浮き出ていて、しみやしわがたくさんある手、もう一つは、白くてふっくらとした手です。どちらの手が綺麗に見えますか。「白くてふっくらとした手」と答えることでしょう。しかし、もう一つの年をとった手、実は、私はこの手も大変美しいと考えるのです。この歳月を重ねた手は、これまで、どんな喜びや悲しみに触れてきた手なのだろう、一生懸命努力して、生きてきた手なのだろうな、など色んなことを想像しました。そして、こう書かれています。 “Never forget the hands that raised you.”「あなたを育てた手を忘れるな」
5月は聖母月、すでに意識して過ごしていることと思います。マリア様は、15,6歳のときに、天使ガブリエルからのお告げを受けて、「あなたは、神の子を身ごもります。」と言われます。「どうして、そのようなことがありましょうか。私は男の人を知りませんのに。」と言って、マリアは「戸惑った」と聖書にはあります。天使は「マリア恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」と言ってマリアから恐れを取り除きます。そして、マリアはこう言います、「わたしは主のはしためです。お言葉の通り、この身になりますように。」つまり、これを引き受けたのです。マリア様は、もはや取り返しのつかない、後戻りのできないことすべてを引き受け入れられました。マリア様は救い主の母として、生涯イエス様と共に歩んでいくことを決心なさったのです。
しかし、この時、マリア様は、十字架につけられ血を流し、十字架から降ろされた我が子(イエス)の亡骸を、ご自分の手で抱きかかえることになろうとは、きっと想像すらしていなかったことでしょう。この様子は、バチカンのサン・ピエトロ教会にあるミケランジェロの作品、「ピエタ」という作品でよく表現されています。私は実際にバチカンでこの作品を見たことがあります。初めて見たとき、作品の美しさに心を奪われ、言葉では言い表せない感動を覚えました。「わあー、綺麗ねー」と言って、1時間立ち止まり、そこから動くことが出来ませんでした。こんなに、悲しいシーンを表現しているのに、なぜこんなに美しいのだろう。今、あらためて考えると、その作品に「母の愛」を感じたからだと思いました。
何かを「引き受けて生きる」というのは、決してたやすいことでなく、自分に都合のいいことばかりが起こるのではなく、喜びや悲しみ、苦しみ、起こってくるすべてを引き受けて、それに向き合って生きる覚悟が必要です。あなたはマリア様の生き方から何を感じとりますか。私は、神への信頼、母の強さ、そして現実を受け入れて生きる、しなやかさを感じます。
さて、現実に目を転じてみますと、5月12日は母の日でした。皆さんは、どのように過ごしたのでしょうか。感謝の気持を伝えることができましたか。家族の形は様々ですが、私たちひとり一人には、産んで育ててくれた親がいます。「あなたのすべてを引き受けて」くれる人です。そして、いつでも、どこでも、何をしていても、あなたのそばにいて、あなたを受け入れ、守ってくれています。親からもらう多くのものの中で、決して見返りを求めない「愛」がもっとも尊く、それこそが自分の人生の土台となっているということには、皆さんもすでに気づいていることでしょう。
あなたが生まれた日、ご両親は喜びの涙を流したことでしょう。はじめてあなたが立った日、歩いた日、話した日、きっと手をたたいて喜び、「もっと、もっと」と言って、あなたを励ましたことでしょう。病気をしたら、ずっと付き添って看病してくれました。幼稚園に行きたくなくて泣いた日、大きなランドセルを背負って小学校に入学した日、はじめての制服に袖を通し、誇らしげに中学校に入学した日、受験勉強に励んだ日、晴れて高校に入学した日、部活動の大会で涙を流した日、お友達と上手くいかなくて落ち込んだ日、学校にいくのが楽しくてしかたない日、学校に行きたくない日。人生には、本当にいろいろな時がありますが、いつもそばにいて、どんな自分でも引き受けて、変わらず愛してくれたのは、親であったように思います。私の父は他界しました、とても厳格な父でしたが、自由な発想の持ち主でした。その父がよく私にこう言っていました、「世界のどこにいてもいい。何をしていてもいい。幸せだと言ってくれ。」父の祈りです。
「あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」(マタイによる福音書7:7)聖書にある通り、親は常に自分の子どもには最善のものを与えたいと思うものなのでしょう。
皆さん、小さいころたくさんギューッと抱きしめてもらった分、少し大人になった今は、心を込めて感謝の気持ちを、言葉と行動で伝えられるといいですね。“Never forget the hands that raised you.”「あなたを育てた手を、決して忘れてはならない」あなたのすべてを引き受けて生きてきた親の覚悟に学びたいと思います。
今日もよい一日をお過ごしください。