10月のみことば 宗教科 納富幸夫
テーマ「幸い」
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
(「マタイによる福音書」第5章9節)
○「その場にふさわしい言動をとること」ができますように。(「18歳のわたくし」より)
○ 無関心を遠ざけ、貧しい人や弱い人を支え、ともに暮らす家である地球を大切にすることができますように。
○ 戦争で亡くなられた方々や不安や混乱に苦しんでいる方々がなぐさめられ、希望が与えられますように。
この聖句は通称『山上の垂訓(すいくん)』、あるいは『弟子に対する就任説教』、『神の国の大憲章』、『主の宣言文』などと呼ばれている書き出しの部分です。イエスがご自分の弟子たちに教えようとする事、また、弟子たちが人々に伝えようとする事柄を教示されたものです。換言(かんげん)すれば、弟子たちに対して、その教えの中心点、本質、真髄(しんずい)を示されたものであって、イエスの教えの重要な点の要約といえます。
さらにこの教えは、マタイの福音では、純精神的な世界の表現として8つの至福にまとめられ、ルカ福音では、物質の世界にまで踏み込んで、4つの至福と4つの災いにまとめられています。又、この垂訓の真の意味はマタイの序文に見ることが出来ます。即ち、イエスは『座って教えられた』と『口を開いて』とあります。ユダヤの指導者たちは、正式な教えは必ず座って教えるのが常でした。今もローマには【教皇の座】(エックス・カテドラ)といわれる「教皇の椅子」があって、教皇様は重要な教書やメッセージ等をその椅子に座って世界に呼びかけられています。それは、この垂訓の教えが重要なことであり、正式なものであり、イエスの教えの中心であることを示しています。そして、『口を開く』という言葉には、二つの意味があって、一つは、厳粛で真剣な、権威ある発言の時に使われる言葉であり、もう一つは、心を開いて、思っていることを披露する心と心のふれあいの中で、親しく教える時に使われています。つまり、この垂訓の内容がその場限りの教えではなく、大事なことを、真剣に、厳粛に話されたということをマタイは説明しているのです。
聖句の中の『幸い』ですが、このギリシャ語の「マカリロス」は、神々について述べる時に用いられる言葉であって、「神に近い、神のような喜び」を表します。外部から決して乱されることのない、内にある喜び、人生の偶然な出来事や変化に影響されない喜びです。この世の喜びは「ハッピネス」で表され、来ては去っていく、たまたま巡り合った「しあわせ」ですが、この世のなにものも取り去ることの出来ない永遠の喜びが「幸い」なのです。
『平和』は、ヘブル語の「シャローム」です。ヘブル語には否定的な意味はありません。従って、争いがないということではなく、すべての心配事がなくなることでもなく、「人間の最高の幸福をつくりだす全てのもの」の意味です。そして、祝福されるのは、平和を愛する人ではなく、平和をつくりだす人です。今、世界は、平和を誤った方法で愛した人によって、問題が引き起こされています。問題を回避するのではなく、問題に直面し、それと取り組み、それを克服することによって生まれるのが、イエスが言われる「平和」です。
この至福の教えが要求するものは、事を処理する苦労を避けるのでなく、積極的に対処して、「平和をつくりだす」ことであって、たとえ苦闘の道であっても、私たちの使命は、あえて、困難に取り組んでいくこと、行動することと言えます。