『神のみことばに 心を向けて生きる』宗教科 納富幸夫
テーマ「神のみことばに 心を向けて生きる」
「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
「ルカによる福音書」(第9章23節)
〇 私たち一人ひとりが「自分の十字架」について考えることができますように。
〇「キリストの生き方を知り、祈りを通して神に心を向ける」ことができますように。
(「18歳のわたくし」より)
〇 キリストに倣って長崎でいのちを捧げた日本26聖人のように
「キリストの価値観で判断し、行動する」ことができますように。 (「18歳のわたくし」より)
ザビエルによって広まったキリスト教信者の数は30万人を超え、1965年12月、京都で24人が捕らえられ ました。そして秀吉の命令によって長崎で処刑されることになり、33日後、立山(現在の西坂の丘)に26の 十字架が立てられ、バプチスタ神父様や少年を含む26人が処刑されました。
彼らが殉教した2月5日、毎年、長崎のこの場所では「司教ミサ」が捧げられ、近隣から多くの人達が祈りに集まります。その中には、日本26聖人が味わった辛さや想いを少しでも知りたいと、26聖人が最後の一夜を 寒い海上の小舟の中で過ごして上陸した時津の港から、処刑された西坂までの道のりを歩き続けるグループも あります。海星の2年生も毎年4月、この地を訪れて26聖人のレリーフと資料館の前で祈りを捧げています。そして、資料館入口の ≪踏絵のマリア像≫ や栄光の間の『神は愛なり』のことばと共に、『自分の十字架を担ってわたしに従いなさい』(「ルカによる福音書」第9章23節)のことばを目にしています。しかし「自分の十字架」とは、誰もが感じる人生の苦しみという漠然としたものではないのです。そこで今月は、このみ言葉の意味と、十字架について少し考えてみたいと思います。
このみ言葉は、イエス様の教えの中でも中心となるものであり、繰り返し強調されているものです。マタイでは2か所、マルコでは1か所、ルカでは3か所、ヨハネでも1か所に記されています。この部分は、キリスト教の真髄を扱っているので、毎日これらのことを心の中にしまい、それによって生活をしていくことができれば、私たちの生活の、いや、人生の支えになってくれるはずです。イエス様はより良く生きようとする人たちに対して、偉大なる挑戦を望まれているのです。それに応えるためには、私たちにも常に3つのことを心がけることが大切になります。
一つ目は 自分を捨てることです。普通、自己否定という言葉は、何かをしないとか、あきらめるという ような狭い意味に使われますが、それはイエス様の言われるほんの一部分にすぎません。自分を捨てるという ことは、その瞬間、瞬間で、自己中心的な行動を止め、神に情熱を傾けることだと言われています。聖母マリアやフランシスコ等の多くの聖人たちが行ってきたように、神にかじ取りを任せることといえます。
二つ目は 自分の十字架を背負うことです。それは犠牲の重荷を受けることともいえます。そのためには、個人的な野心や望み、名誉等を放棄しなければならない場合があります。報酬が少なく、名誉や喝采を浴びる こと、認められることもないかもしれません。快楽を楽しむ代わりに、積極的に責任ある仕事に努めなければ ならないでしょう。さらに、人により多くのものを与えるためには自分の持ち物を制限せざるをえない場合も あるかもしれません。ルカは、このイエス様の言葉に他の福音書には全く見られない、自分の言葉を一語、付け加えています。それは、「(日々、)十字架を取りなさい」。ここで大切なのは、ある瞬間に、劇的な犠牲を 払うことではありません。イエス様は私たちに神の望みや人々の想いを意識しながら生きていくことを絶えず 望まれているとルカは伝えています。
三つ目は イエス様に従うことです。私の思い・言葉・行いにおいて、常にイエス様という指導者に従っていくことです。そしてイエス様に導かれて、永遠の命に与るために、どこまでもついて行かなければならないのです。【従う】ということの意味は、「ルカによる福音書」第9章58節 ~ 61節の中で『キツネには穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところがない』と綴られています。これは、『私に従う前に、それに 伴う犠牲を考えなさい』というイエス様の忠告でした。イエス様がこんなにも高い要求を課せられているのは、一時の感激から従ってくるような人ではなく、自分の行動を良く理解してついて来る人、地の塩、光の子としての人生を真面目に歩む努力を日々心がけている人達に対してです。彼らこそが、神の栄光に値するといわれて いるのです。