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フランシスコ教皇の帰天

フランシスコ教皇の帰天

 4月21日にフランシスコ教皇が逝去されました。

 10年以上にわたり世界の教会を導くとともに、社会の片隅に置かれた地域や人々に心を寄せ、地球を「共に暮らす家」と呼んで環境悪化を防ぐための生き方も示されました。  

 「教皇」とは、ラテン語で「橋を架ける人」の意味があるそうです。神と人間を結びつける「架け橋」の役割だけでなく、各国のリーダーたちと会談し、核兵器廃絶を訴え続け、世界に平和の橋を架け続ける働きもされました。

 訃報があった日の翌日、子どもたちをフランシスコ・ホールに集めて追悼するつどいを行いました。子どもたちには写真を提示しながら、海星小とも繫がりの深いフランシスコ教皇が亡くなられたこと、日本にも来られて核兵器の廃絶を訴えられたことなどの功績を伝えました。そして、主の祈りを一緒に唱えました。

 海星小は、フランシスコ教皇が示された生き方「ラウダート・シ・ゴールズ(LSGs)」を目指した教育を行っています。LSGsには、7つのゴールが示されています。その7つのゴールそれぞれに、学習を通して目指す子どもの姿を掲げています。その姿を求めて、教科等の単元を効果的に関連させた指導を行っています。

 フランシスコ教皇が天国の主イエスのもとで安らかに憩われますようお祈りいたします。

平和の大切さについて

 修学旅行の1日目のバスの中で、子どもたちと「母と暮らせば」を鑑賞しました。山田洋次監督、吉永小百合主演の映画です。視聴後子どもたちに感想を尋ねると、原爆の恐ろしさだけでなく、原爆が様々な人たちの人生を狂わせることなど、様々な答えが返ってきました。

 映画では、原爆が投下された場面が描かれていました。私はその場面が特に印象に残っています。大学の講義室で二宮和也演じる浩二が、ペンにインクを付けているときでした。原爆の閃光が辺りを覆いつくし、インクの瓶を中心とする風景が一瞬にして溶けたのです。その表現がとてもリアルに感じました。

 私は中学2年まで長崎にいました。母校は、修学旅行のフィールドワークでよくコースに入る山里小学校です。父と祖父も同校を卒業しています。長崎の小中学校はどこもそうですが、原爆の日を中心とした平和に関する学習が充実しています。私が小学生の頃は、多くの子どもたちがそうであったと思いますが、親から原爆に関する話を実体験を含めて聞いていたことと思います。私も父から次のような話を聞いていました。

 私の父方の祖父は、戦時中長崎三菱造船所に勤務していて、そこで被爆しました。祖父は運良く一命を取り留めました。祖父は家族が心配になり、炎に包まれた市内を避けて稲佐山(修学旅行で宿泊したホテルのある山)を経由して自宅に戻りました。しかし自宅は爆心地から500メートル程の場所だった為、跡形もありませんでした。   

 私の父には、姉、1か月から13歳までの弟や妹たちが5人いました。父は当時18歳で兵役のため長崎にはいませんでした。姉は長崎の兵器工場にいましたが命を取り留めていました。ですから祖父は、祖母と私の叔父・叔母にあたる5人の子どもたちを必死に探しました。しかし、全員、黒焦げの遺体を確認するしかありませんでした。

 一方、長崎に帰ってきた父は、街が崩壊していることに呆然とし、家族の行方も分からず、途方に暮れたそうです。

 父の姉は命を取り留めたものの、白血病に冒されていました。次第に体が弱っていくなかで、リンゴが食べたいと口にしました。祖父は、その願いを何とか叶えてやりたいと思い、リンゴが手に入る当てがあったところを訪ねてみました。すると、そこに父がいました。その訪問先は、父がたまたま身を寄せていた戦友の家だったのです。

 父は祖父との再会を喜び、すぐに姉の元に駆けつけました。そして祖父と共に姉にリンゴを渡し、最後を看取りました。父は、祖父と姉に再会できたのは、神さまの導きによるものだと言っていました。

 父は既に帰天していますが、この話と共に私の心の中で生き続けています。私はこれからも平和や家族の大切さについて子どもたちに伝え続けたいと思っています。

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