校長室からMessage

こうのとりのゆりかご

教 頭 松本 裕子

〇今年1月25日の全校朝礼は、「クリスマス募金の贈呈式」でした。昨年の11月16日~12月15日までの1か月間、運営委員会を中心にクリスマス募金を行いました。今年度の募金は、本校と縁のある熊本の「慈恵病院にある【こうのとりのゆりかご】」の支援のために行いました。たくさんのご協力ありがとうございました。贈呈式には、前校長のシスター入江とリモートで繋ぎ、慈恵病院の取り組みである「こうのとりのゆりかご」についてお話を聴きました。

〇慈恵病院の始まりは、本校のルーツと深い関係があります。1889年(明治22年)ジャン・マリー・コール神父さまが熊本・筑後地区に派遣され、熊本市の手取教会を作られたことから始まります。コール神父さまは、フランス出身で26歳の時に長崎に来日。その後、大日本帝国憲法の発布により、信仰の自由が保障されると、ただちに熊本へ派遣されます。そこで本妙寺周辺でゴザを敷き治療を受けずに寝転がっているハンセン病の人たちを見て、教皇庁やフランスの修道会に救助要請をします。すぐに「マリアの宣教者フランシスコ修道会」マリー・ド・ラ・パシオンが5人のシスターを派遣します。マリー・ド・ラ・パシオンは、本学院修道会の創立者です。派遣された5人のシスター方は、献身的にハンセン病患者の治療にあたります。1898年(明治31年)ハンセン病の病院「待労院」が設立され、翌年、捨てられた乳児を収容する「聖母愛児園」を開設。1915年には「聖母の丘老人ホーム」を設立しました。そののち、貧困で治療を受けられない人たちのために「施療院」を設立。これが発展して1952年(昭和27年)に慈恵病院となります。

〇「マリアの宣教者フランシスコ修道会」は、聖フランシスコの精神を受け継いでいます。その精神は、慈恵病院へも受け継がれています。

  理解されることよりも 理解することを
  愛されることよりも 愛することを
  人は自分を捨ててこそ 受け
  自分を忘れてこそ 見出し
  赦してこそ 赦され

〇1978年慈恵病院の運営を修道会から任された蓮田太二先生は、産婦人科医でした。病院で妊婦さんと赤ちゃんの命に向き合う中、お産に問題を抱えるお母さんを何とか支援できないか、赤ちゃんの遺棄事件が後を絶たない日本の社会に課題を持たれます。 まずは、24時間「SOS赤ちゃんとお母さんの相談窓口」を開かれます。出産への啓発や相談に力をいれても、お産がすべて万全なわけではなく、何年に一回は危険を伴う出産を経験されます。そのたびに、頭を垂れ祈られます。お産を援助して誰ひとりとしてお母さんを失わなかった奇跡に感謝し、先生は1998年にカトリックの洗礼を受けられます。

〇「こうのとりのゆりかご」が開始されたのは、2007年5月10日。ここに至るまでには、政府や社会から大きなバッシングを受けます。当初「赤ちゃんポスト」の名前が先行し、「ポスト」のイメージが郵便物を投げ入れるもの。「赤ちゃんを無責任に投げ入れるなんて子捨てを助長することになる」「母親はどんなに苦しくても育てるのが当たり前」「今後の子どもの将来はどうなる」私も当時の報道を鮮明に記憶しています。

〇蓮田太二先生は、昨年10月に84歳でお亡くなりになりました。現在、蓮田先生の息子さんが病院を受け継がれています。蓮田太二先生は、155名の赤ちゃんの命を助け、養子縁組は300件以上になりました。「どの子もかけがえのない子であり、人類の歴史を作る誇り高い存在。何よりも命が大事、命を助ける」と言い続けられました。

〇本校の修学旅行は、この熊本の地が「ルーツを探る旅」の最終日となります。「こうのとりのゆりかご」も見学します。今年は、コロナ禍で訪問することができませんが、リモートで熊本の修道院と繋ぎ、シスター入江からお話を伺おうと計画しています。

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