校長室からMessage

死者の月・霊魂の月  校長 山田 耕司

死者の月

〇 11月はカトリック教会では「死者の月」です。本校では
5日に慰霊ミサを献げます。本校の恩人のシスター方、新型コロナ感染症や震災で帰天された方、海星ファミリーの親族の方々のために祈ります。欧米では「霊魂の月」と言います。

〇 カトリック教会で行われる葬儀ミサの前日、通夜の式で は「親しい人との別れは、だれにとっても悲しいことです」という司祭の招きの言葉で始まります。特に身近な人のを前にして、という現実を目の当たりにするのはいつの世も同じです。しかしキリスト者は、が人生の終わりに思えたとしても、新たな人生の始まりであり、目的である天国への旅立ちであると受けとめます。人のを素直に見つめ、悲しみの中にも安らぎを覚えるのです。イエス・キリストは「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者はたとえんでも生きる」と教えられました。別離の悲しみのうちにもキリスト者は、このイエス・キ リストのことばに慰めと希望を見いだします。

〇 このようにキリスト教においては、死というものが神の みもとに帰り、永遠のいのちにあずかるということですから、亡くなった人の魂が永遠に安らかに憩うように祈りをささげることをかねてから教えてきました。また私たちは生者同士の関係だけでなく、生者と死者との連帯関係にあります。キリスト教の初代教会時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、死者のための祈願をもささげてきました。

柳田國男の世界

〇 私は四王寺山の中腹(太宰府水城)に住んでおります。週 末にはその散策路でウォーキングを楽しんでおります。今は虫の声が消え紅葉の下を注ぐ谷川のせせらぎを耳にするようになりました。秋深しです。自然の変化を目にしながら歩んでおりますと、思考が豊かになります。
帰天した私の両親もこの四王寺山麓の隣町に住んでいました。木洩れ日の中歩きながら時折、柳田國男の「先祖の話」を思い出します。

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