校長室からMessage

クリスマスを待つ季節

                         校 長 山田 耕司
クリスマスがやってくる  

〇 海星小学校のクリスマス会は12月11日に行われます。
「ともに」をいくつかの体験から紹介しましょう。「ともに」をどうぞご家族で分かち合いくださいませ。

イルマン・アルメイダ

〇 大分市にアルメイダ病院があります。大分市医師会が経 営する病院です。この名称は470年前宣教のために来日したカトリック・イエズス会宣教師一行に随伴したポルトガルの貿易商ルイス・デ・アルメイダに起因します。
日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが豊後(大分)を訪れたのは1551年のことでした。当時の府内、現在の大分市には貧しい人々や病人が多く、府内にやってきた宣教師たちは、こうした人々の救済に力をつくし、1557年には医師でもあったルイス・デ・アルメイダがポルトガルでの体験を生かして府内に初めて病院を建てました。

〇 病院では、日本で最初の外科手術が盛んに行われたほ か、食事療法の生活指導や巡回治療も行われ、その噂は九州はもとより遠く各地に広まり、多くの患者が訪れていたと当時の記録は伝えています。
  また、病院には、日本最初の医学校も併設されていました。アルメイダは、この病院を建てる2年前に私財を投じて育児院も開設しており、2頭の雌牛を飼って貧しい子どもたちに牛乳を飲ませて育てました。そしてこの子たちとともに小さな馬小屋を囲んでクリスマス・キャロルを歌いました。

〇 アルメイダを記念する銅像は大分市にありますが、もう 一つ本校の6年生が修学旅行で訪れる長崎の島原教会にもあります。アルメイダはイエズス会の修道士(イルマン)になり 最後には神父にもなります。そして医療を得意とする宣教師として九州各地を巡ります。彼は島原と口之津に教会を建てました。その後、島原半島には70の教会ができ75000人が信徒になりました。  

 しかし、1587年豊臣秀吉の禁教令が発令されると殉教者が続出しました。最後はご存知の「島原の乱」です。

○ 島原半島殉教者記念聖堂と命名されたこの教会に他の殉教者の銅像と共にアルメイダが幼子と骨折をした少女を抱く銅像があります。これらを寄進されたのは海星小学校の卒業生家族です。

古巣神父様の話

〇 古巣神父様がこの島原教会で主任司祭をされていた時の出来事です。

 玄関を開けると、赤ら顔の小さな人が立っていました。「奈留島(五島列島)出身の古巣神父はおりますか」「はい、私ですが」「おった、おった、ちょうどおった。今よかですか!」長年しみ込んだアルコールと汗のすえた臭いが漂いました。

開口一番「天使のおるとですね」。「遇いましたか」「はい、遇いました。何人もの天使に遇いました。だから、ここまで来れたとです」。その人の顔は無邪気な子どものようでした。

〇 「雲仙出身の順一」と名乗り、身の上話を始められました。生まれながら小児まひの後遺症で背丈が伸びず歩行障害もあること。父は名のあるホテルのシェフで自分も料理人を目指しましたが、不器用で人見知りでうまくいかず、40歳で旅に出ました。北海道から沖縄まで彷徨し10年後は宮古島のさとうきび畑にいました。父の死に目にも会えませんでした。

 雲仙に帰郷して老舗ホテルの厨房に勤めましたが、不景気と仕事中の飲酒が原因で1年でリストラされました。老いた母との二人暮らしは暗かったです。クリスマスもやけ酒を飲んでいました。

○  小雪の舞う2月、母を残してまた旅に出ました。7か月間九州を放浪したあげく、長崎に戻った順一さんは、なぜか五島の福江島に居ました。最西端にある大瀬崎灯台をめざしました。今度は死出の旅でした。

○  福江港の待合室で見た大瀬崎灯台と井持浦教会のルルドの聖母のポスターに引かれて、うつろに向います。教会脇の小道を登ると、1時間余りで灯台です。途中、上からかますを背負って降りてきた老婆とすれ違いました。「どちらからお出でましたか」「雲仙からです」「こがん不便なところまで、いろいろあったでしょうな。それでも、神様はおらすとよな」 そう言うと、襟元からマリア様のメダイを取り出して、そっと順一さんの首に掛けてくれました。

「あんたのために祈っとりますけん!」                    

メダイには緑青がふき、鎖は漁に使うヨマ(釣り糸)でした。

結局、灯台の淵には立ったものの、順一さんはなぜかためらい引き返します。

○  福江港に戻り、次に来た船に乗りたどり着いたのが奈留島でした。あてもなく山道を歩いていると、わき道から出てきたライトバンが横に止まりました。「どちらまで行きますか」「いいえ、別に決めておりません」「よかったら乗りませんか」

その方の家に連れて行かれました。そして、風呂に浸り、ご飯までご馳走になりました。「これから、どちらへ」「いいえ、行くあてはありません」「たしか、出身は雲仙でしたよね。私の弟が島原で神父をしています。よかったら、訪ねていきませんか。後はなんとかなりますよ」

○  進められるまま、順一さんが島原教会を訪ねたのは10月上旬でした。「五島で遇った人たちは、この屑のような私を、息子か友人のように迎えてくれました。私は、とうとう最後は一番駄目な自分に疲れて死に場所を探しました。あの人たちの暮らしも楽ではなさそうでした。でも、大切なものを見ず知らずの私に、そっと差し出してくれたり、『あり合わせのものですまんね』と言いながら、気前よく振舞ってくれたり、少しのことでケラケラ笑っていました。」

「貧しい人たちのうちに、神様がいることを初めて知りました。あの人たちこそ、神様から遣わされた天使です。私は、ほんとうは生きたいんです!仲間に入れてもらえませんか」

○  2か月後、天使たちが告げたように布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされ「自分を無にした」イエスの貧しさの神秘の中で、順一さんは洗礼を受けました。

一度は解雇したホテルも年末の多忙さから再雇用してくれました。順一さんは仕事を終えると、地域の雲仙教会の清掃に精を出し、静かに祭壇の前に座ります。

 しかし、豊かな日々は1年も続きませんでした。全身を癌に侵され、クリスマスを前に12月20日、53歳で帰天されました。

「人の一日には、必ずひとり『その日の天使』が遣わされています(中島らも『その日の天使』より)」

あなたは、今日、天使に遇いましたか。

神様はおらすとよな

〇 6年生が毎年修学旅行で訪れる長崎市外海町はフランシス・コザビエル訪日以来のキリシタンの里です。 キリシタンの里外海のクリスマスは、「お誕生」と呼ばれていました。隠し柱の中から取り出された「雪のサンタマリア」の小さな掛け軸を掲げます。馬小屋に見立て大きめの陶器に干し草が敷かれます。小さな人形が幼子イエスとして寝かされました。代々伝わる香台(家庭祭壇)を前に、粗末な馬小屋を囲みオラショを唱えます。密かに静かにゆっくりと。

260年の歳月を刻みました。

「沖に見えるはパーパの船よ、丸にやの字の帆が見える」外海のキリスト信者が、先祖7代、神父を待ち続けて伝えた歌です。神様はおらすとよな。(パーパ=ローマ教皇、丸にや=マリヤ)

今年のクリスマス

〇 毎年、紛争に喘ぐ人びともクリスマスには休戦を呼びかけます。せめて1年にこの時期くらいは平和でありたい。ささやかな願いが今年も叶いますように。

 海星っ子は、どんなプレゼントをサンタクロースにお願いするのでしょう?

 先生方は12月18日の夕べ、学院職員100名が講堂に集いクリスマスミサに与り、ともに祈ります。

ご家族でよいクリスマスをお迎えくださいませ。  (了)

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