サマリア人の教え
まず認める・ほめる、そして叱る
校長 山田 耕司
重い皮膚病の人
〇 イエスはエルサレムへの旅の途中、サマリアとガ リラヤの境をお通りになった。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の男が待ち受けていて、遠くの方に立ち止まったまま、声を張りあげて、「イエスさま、先生、わたくしたちをあわれんでください」と言った。イエスは彼らを見て、「祭司のところに行って、体を見せなさい」と仰せになった。彼らは行く途中で清くなった。そのうちの一人は、自分がいやされたことに気づき、引き返してきて、大声で神をほめたたえ、イエスの足下にひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。 (ルカ福音書17・11-16)
〇 聖書には度々サマリア人が登場します。
サマリア人はユダヤ人とユダヤを侵略したアッシリアからの移民との結合に起源をもちます。彼らはユダヤ教を源流とするサマリア教を信じ、長くユダヤの人々の蔑視の対象とされてきました。
〇 上記のルカ福音書17章の出来事は、サマリア人で ありハンセン病者である男の話です。
ハンセン病のため不可触民とされた10人の男は、遠くから大声でイエスに救いを求めます。そして「清くされた」(治癒する・元に戻った)9人は大喜びで家族の元に帰って行きます。
しかし、サマリア人は「いやされた」と受け止め、イエスの下に戻って来ました。彼は神の慈しみに出会ったのです。神の存在を感じとったのです。「回心」をしたのです。「あなたの信仰があなたを救ったのだ」(ルカ17・19)とイエスは仰せになりました。
この話から聖書は私たちに「回心」することのよさを教えます。
イエスの教えは
○ サマリア人のたとえ話は、1匹の迷える羊を捜すために、99匹をそこに残し動き回る羊飼いの話、父親に財産の生前分与を迫り、大金を握り放蕩三昧をする次男と父親・兄の話に繋がります。
○ サマリア人も助けられた羊も放蕩息子も「回心」する喜びを味わいます。「回心」は悪い心を改める意味の「改心」とは少し違います。丁度金庫を開けるためにダイヤルを回して解錠するように、自分の今の心を「キリストの教え」に合わせ解放される行為を意味します。人間ですから自由奔放に生きたいと思います。そして時々失敗や過ちを行ってしまいます。その時「回心」できればどんなに生きやすいでしょう。幸せでしょう。
愛されること
〇 人は神様から与えられたタレント(存在・使命)をもっています。自分ではその全容がなかなかつかめませんが、それはあるのです。迷える羊も放蕩息子も、自由に生きたいと思い行動します。結果は大失敗でした。それでも神様は赦して迎え入れてくださいました。全ての人が愛されているのです。
〇 こどもはお母さんからお父さんから愛されていると感じています。もっともっと愛されたいと求めています。一方で、自由に生きたいという本性もあり、それは成長と共に高まり深まっていきます。
認める・ほめる、そして叱る
〇 聖書の中では、イエスが弟子たちに人々に、熱心に関わられる場面が度々登場します。そしてイエスはその人の行動を受け止め、「あなたの信仰があなたを救ったのだ」とおっしゃいます。それはその人を「認める・ほめる」言葉です。その時のその人の喜びようを想像してみてください。
小学生のこどもにとって家庭の中での「回心」とは、のびのびと日常を送りながら、時折、愛を基盤とした親子の関係に立ち返ること、親の教えにも立つことでしょう。親は必要に応じて我が子に「回心」を願います。そのための行為として、「認める・ほめる」・「叱る」があります。この行為の順番は大切です。まず認める・ほめる。そして叱る。
母は愛情をもって、未だ幼い(未発達の)弟や妹に、ついつい「お姉ちゃまを見習いなさい」と言いがちです。でも兄弟姉妹であっても、一人ひとりのタレントに合う親子関係をこどもは望んでいます。
〇 こどもは自分を取り巻く自分が関わる環境の中で成長ていきます。家庭で学校・学級で地域社会で、人々の中で地球自然の中で、もまれながら支えられながらぶつかり合いながら生きていきます。
社会で生きていくには、目をそらさないで関わりを壊さないで多面的に多角的に見て聴いて行動することが求められます。狩猟採集時代から農耕漁労時代、工業化時代を経て、情報化時代になりAI・ICT時代を指向する今、それはこどもたちにも大人たちにも、ひとしく求められます。
祈ります
〇 私たちは折にふれ祈ります。祈りたくなる時もあります。
「祈り」は神様や仏様とお話しすることでもありますが、同時に自分の心の深い部分に語りかける大切な行為でもあります。
朝の祈りです。一日の始まり、希望の朝です。
「いつもほがらかに、すこやかに過ごせますように」
「自分のしたいことばかりでなく、あなたの望まれることを行い、まわりの人たちのことを考えて生きる喜びを見いださせてください」
夕の祈りです。一日がんばりました。でも少し疲れました。
「明日はもっとよく生きることができますように」
「悲しみや苦しみの中にある人たちを助けてください。わたしが幸福の中にあっても、困っている人のことを忘れることがありませんように」
〇 私は、今日、我が子を
認めましたでしょうか。
ほめましたでしょうか。
叱りましたでしょうか。
(了)
*「付記」:本学院本校の設立母体及び理事会は、明治期に日本で最初のハンセン病療養施設「待労院」を熊本市に創り、現在、赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」で話題の「慈恵病院」を運営していた「マリアの宣教者フランシスコ修道会」です。