海星のルーツを訪ねて ~修学旅行のエピソード~
校長 山田 耕司
は じ め に
〇 コロナ・パンデミックの緩和傾向に伴い、文科省から学校教育の活性化への配慮が促されるようになりました。この機会を活かして、本年度の修学旅行は、本来の2泊3日のコースを復活させました。その中で3つのエピソードを紹介いたします。
浦上教会での久志神父様の話
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ここは、「被爆マリア小聖堂」といいます。正面に安置されているマリア様を見てください。原爆で焼けて目の部分が空洞で落ち込んでいますね。このマリア様は1914年、東洋一といわれた浦上教会が完成したとき、正面祭壇の最上段にありました。イタリアから送られてきた高さ2mの木製のマリア像です。丁度ここにレプリカがありますね。このように青い眼と水色の衣をまとい、頭の周りを12の星が取り巻く美しい像でした。
しかし、浦上教会は原爆により壊滅しました。マリア像も教会とともに焼失したと思われていましたが、戦後、焼け跡をたずねた浦上出身の神父(北海道函館トラピスト修道院)によってマリア像の頭の部分だけが発見され、その神父がマリア像を修道院の自室に大切に保管していましたが、被爆30周年の年に浦上教会に返されました。
○ 傷ついたマリア様は、身をもって戦争の恐ろしさ、原爆の脅威を訴え続けています。マリア像は、平和の使者として教皇のおられるバチカン、ウクライナ(旧ソ連)のチェルノブイリ原発事故の被害地、スペインのゲルニカ、ニューヨーク国連本部などを訪れました。 ○ 原爆や戦争のことを自分事と感じにくい6年生に、神父様はご自分の母の話をされました。私は長崎沖合に浮かぶ五島の出身です。小学校卒業後神学校に入りました。10歳の時母親が病死しました。癌でした。なぜ癌になったか分かりません。母は被爆者でした。原爆が原因かは分かりませんでした。大好きな大切な母が亡くなりました。天に召されました。その時のことは今も鮮明に覚えておりますよ。皆さんにもお母さんがいらっしゃいますね。大事にしてますか。大切にしてください。もう6年生ですからできますね。平和は戦争をしないことだけではありませんよ。自分の身の回りにいろいろな人がいますね。その人たちへあなたはどのように関わっていますか。お母さんは大切ですね。同じように周りの人も大切にしてください。
旧出津救助院でのシスターの話
○出津教会の下の谷に小さな井戸があります。側にルルドのマリア像が立っています。村のいのちの井戸です。この村に水道が通るまで「水汲み」は長い間女の子の仕事でした。兄弟姉妹の子守りも女の子の仕事でした。男の子は父親と共に角力灘へイワシ漁に出ました。野良仕事にも出ました。毎日汗をかきながらわずかの雑炊をすする日々でした。家族が集まり納戸の裏からマリア様に見立てた小さな観音像を取り出して祈りました。感謝の時間を家族で分かち合ったのです。 ○ 先日皆さんの海星小学校の卒業生Nさん(48回生)がご両親とここに来てくださいました。修学旅行で訪れた地にご両親を案内するなんてとても素晴らしいことですね。海星はとてもいい学校なのですね。 ○ ド・ロ神父様は貧しい生活をする村人にキリストの教えを説くとともに、生活の向上を図る方法も指導しました。この村には母子家庭や孤児や孤老も多かったのです。機織り・そうめん・マカロニ・牧畜・漁網・建築・土木・医療施薬と多岐に渡りました。一緒に出津教会も建てました。角力灘の強風に耐える天井の低い柱が太く多い造りです。皆さんにもド・ロ神父様のように一人ひとりに素晴らしいタレントが与えられています。是非惜しみなく使ってくださいね。 (
○ シスターの弾かれるド・ロ神父様のハルモニウムオルガンで「みははマリア」を歌いました。100余年を越えてコラボする美しいハーモニーに包まれ、今ここに居させて頂くことに神に感謝しました。
熊本修道院でのシスター滝沢の話
○ ここは私たち修道会の日本での出発の地です。
ハンセン病という十字架を背負い、その方々の介抱のために、命を捧げた一粒、一粒の麦が、地に落ちて、多くの実を結び、今の私たちを育て、ともに祈り、教え続けておられます(修学旅行の最後に熊本修道院の墓地に眠るコール神父様と多くのシスター方に祈りを捧げました)。この世でイエスのために自分の命を捨て、永遠の命に至るということを私たちは知らせる使命を持って、今を捧げています。
○ 私たちマリアの宣教者フランシスコ修道会が日本で宣教の第一歩を踏み出したのは1898年(明治31年)10月19日です。当時、日本に国立ハンセン病療養所が一つもない時代に、余りにも非人間的な生活を強いられているハンセン病者を世話するためにコール神父様から熊本へ呼ばれて来たのが始まりでした。 ○ 当時、コ-ル神父様は本妙寺下中尾丸のライ集落に自らの手で療養所を開きましたが、惨めな患者の苦しみを和らげるためにはどんな犠牲をはらってでも病院の建設が必要であると切実に感じ、この要望に応じてくれる修道会を探しました。しかし、どうしても見つけることができませんでした。 ロ-マにある他の修道会から「マリアの宣教者フランシスコ修道会の創立者マリ・ド・ラ・パシオンは ハンセン病者を救うためなら どんな要請も決して断らない」ということを耳にすると、神父様は大急ぎで創立者に手紙を書き、この事業を引き受けてくれるようシスターの派遣を依頼しました。その要望が当時九州のカトリック教会の責任者だったクザン司教(長崎・大浦天主堂)からも正式に創立者のもとに届いていました。その要請の手紙にはハンセン病の悲惨さと病院経営の難しさが綴られていました。 ○ 常々ハンセン病者の世話をするシスターが「私たちの友」であるハンセン病者の「はしため」になることを心から望んでいた創立者マリ・ド・ラ・パシオンは、この呼びかけを神からの呼びかけ、聖フランシスコの招き、愛の賜物として即座に受け入れました。創立者は、日本から受けたハンセン事業の要請を日本の地に、聖フランシスコの生き方を通して福音を宣教するためにシスターを派遣します。何よりもハンセン病者へのこの修道会創立者の愛が日本にマリアの宣教者フランシスコ修道会を誕生させたのです。 ○ そして、その精神はあなた方海星小学校の皆さんに受け継がれています。
お わ り に
○ 日本のキリスト教の歴史を一堂に見ることができる唯一の博物館が「26聖人記念館」です。6年生が学芸員の宮田さんに案内されている間、私は2階の殉教者の遺骨がある「栄光の間」で黙想をしていました。
○ 日本にキリスト教を伝えたザビエルが残した遺産、それはイエスの十字架の贖いと復活という霊性です。イエスの十字架の恵みから溢れ出る殉教、いのちをかけた愛のあかしの霊性です。
ザビエルに殉教者のこころを植えつけたものは、弱い立場に立たされた人々に対する共感と十字架上のイエスへの愛でした。
○ 16世紀中旬の日本、虐げられ、見下され、絶望に打ちひしがれていた人々は、驚いたことでしょう。
苦しみは自分の悪行の報い、呪いのしるしと考えられていた常識が、イエスの十字架と復活によって、ひっくり返されたのです。
○ ザビエルや宣教師は、何度も何度も話しました。
「自分の苦しみには意味があります。不遇は希望へのしるしです。イエスに従っていけば苦しむことになります。嫌でもそうなります。でもそのど真ん中に、けっして奪われることのない真の希望が飛び込んでくるのです。これは神様の約束です。」
ザビエルを発端に神が植えつけた信仰と霊性は、どんな試練の中でも、たゆまず、ぶれず、深さ、高さ、広さを増しながら、250年間まっすぐに成長しました。
○ そして、コール神父様に招かれた5人のシスターのハンセン病者へのケアがあり、海星小学校があり、「こうのとりのゆりかご」があります。
この子たちは、たしかに招かれています。
(了)