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海星のルーツを訪ねる

    最初の西洋文明が咲いた地

校長 山田 耕司

○ は じ め に                    

海星のルーツ長崎・島原・熊本を訪ねる6年生の修学旅行は、平成22年度から始まりました。今年で13回目になります。子どもたちが自分の将来をつくるために、6年間海星で学び、身につけたことの意味や価値に出会う旅です。昨年・一昨年度はコロナ禍のため1泊2日に短縮しましたが、今年度は本来のコースに戻ります。そのいくつかの地をご紹介しましょう。ご家族で是非訪れてみてください。        

 「修学旅行コース」                    

南関IC・フェリー⇒島原教会⇒有馬キリシタン遺産記念館⇒口之津イルカウオッチング⇒長崎市伯⇒黒崎教会・出津教会⇒大浦天主堂⇒永井隆記念館⇒浦上天主堂⇒原爆資料館・平和祈念像⇒長崎市泊⇒26聖人記念館⇒島原港・フェリー⇒熊本城⇒慈恵病院・熊本修道院⇒植木IC    

○ 「黒崎教会」・「出津教会」(しつきょうかい)

ご存知のように日本にキリスト教を伝えたのは、イエズス会の宣教師(司祭)でスペイン人のフランシスコ・ザビエルです。ザビエルは、鹿児島に上陸し布教のため、アジアン大名(南蛮貿易に熱心な大名)と言われた大友氏(大分)や大内氏(山口)、松浦氏(平戸)を訪ねます。そのような中で、最初にキリスト教徒の集団が誕生したのは、都でも武士や商人の住む城下町でもありませんでした。それは長崎西彼杵半島の黒崎郷です。黒崎は平成の大合併で外海町黒崎から長崎市と変わりましたが、東シナ海の角力灘に面した寒村です。今でこそ海岸線を国道が走りますが、明治期までは平戸や長崎から隔絶された陸の孤島でした。猫の額ほどの耕地を作り荒海に小船を浮べて漁をしていました。「パライソにまいろう」素朴な生活をする人々が、素朴に生きることこそ神のみ教えとする信仰に出会いました。最初に神を信じたのは最も貧しい人々でした。(遠藤周作の「沈黙」の舞台です) 

○ あまりの生活の厳しさに江戸中期には、この村から領主の政策もあり五島列島への大量移民が行われました。この移民に混じって多くの潜伏キリシタンが五島に渡り、その子孫が明治以降カトリックに帰依し、世界遺産「五島の教会群」を建てます。この村に今もフランス人のド・ロ神父が明治時代に開いた黒崎教会と出津教会があります。ド・ロ神父は、村民が自活できるように種々の産業を教えます。向学心に燃える若者は長崎の学校に派遣しました。司祭や修道者や実業家の道を選ぶ子どもが出ました。長崎の畜産業や精肉業もこの村から始まりました。驚くことに出津教会からは、多くの司祭・修道者と共に二人の枢機卿(ローマ教皇の選挙権を持つ高位聖職者)が誕生しています。                      

○ 「島原教会」・「雲仙教会」              

二つの教会に青が基調のイタリア製のステンドグラスがあります。島原教会は雲仙地獄や島原地方でのキリシタン殉教の図です。雲仙教会は潜伏キリシタンが250年間7代に亘って信仰を持ち続けた理由を明らかにする信仰のしくみの図です。信徒は司祭が1年に1回程度しか巡回指導に来られないことを予想して強い信仰組織をつくります。信徒のリーダーを養成する「サンタマリアの組」。聖書の教えを実践するグループを養成する「慈悲の組」。仲間たちを励まし支え続けるため聖体を拝領させる「聖体の組」の3つがそれです。島原教会の庭に当時の宣教と殉教を描いた3体の彫塑があります。その一つは日本に西洋医学を広めたアルメイダ像です。これらは海星ファミリーのひとりが寄進されたものです。     

○ 「口之津」                   

 450年前、南蛮大名有馬氏の要請によってポルトガル船が口之津に入港します。多くの宣教師や商人が口之津にやってきました。そして教会、学校や病院を建てました。最盛期には、この島原半島に70もの教会がありました。西洋音楽の教授や西洋絵画・哲学・天文学・印刷の授業が日本で最初に行われたのはこの地です。                                  島原半島を抱き有明海の入口に位置する口之津港は、古代から天然の良港として知られていました。 明治になり三池炭鉱が三井によって開鉱されると、中国やシンガポールへの石炭積出港として九州一の貿易港になります。石炭運搬人夫(若い女性が主)が全国から集められました。奄美の与論島では一村あげて移住してきました。運搬船の船底には「からゆきさん」と呼ばれる10代の女性が密航者として潜んでいました。かつては日本も貧国の一つでした。島原の子守唄の悲しい響きが耳に残ります。(口之津歴史民族資料館に展示品があります) 

                                                            「聖コルベ記念室」                 

土産物店の連なる大浦天主堂下グラバー坂を下る途中に、遠藤周作ご推奨の聖コルベ記念室があります。子どもたちが買い物をしている間、訪れてみました。ここは、カトリック修道院「聖母の騎士」発祥の地です。片隅に当時のマントルピースが残っています。コルベ神父様は、日本の軍国時代に神の教え(愛)を小冊子にし、行きかう市民に配り続けました。その後、故国ポーランドに帰国し、ナチスに捕らわれアウシュビッツ収容所で「身代わりの愛」を実行し天に召されます。(遠藤周作の小説「女の一生~サチ子の場合~」に詳しい)   

 「26聖人記念館」                 

JR長崎駅の向かい側にある西坂はキリシタン処刑地(殉教地)の跡です。ここに26聖人記念館と記念聖堂が建てられました。 記念館にはキリスト教関係の国宝級遺品が数多収蔵されています。 ザビエル直筆の書簡や天正少年使節中浦ジュリアンの書簡、26聖人の遺骨、「雪のサンタマリア」の絵もあります。キリスト教伝道の歴史すべてが系統的に学べます。

○ 「有馬キリシタン遺産記念館」          

 世界遺産の候補にも挙げられたキリシタン遺産の記念館です。有馬藩の日野江城跡や島原の乱の原城跡を中心にキリシタン遺産が展示されています。グーテンベルグ式印刷機、銅版画などセミナリオの芸術も見ることができます。    

 「慈恵病院」・「熊本修道院」            

私たちの海星小学校を創設したマリアの宣教者フランシスコ修道会は、1898年に当時筑後・熊本地方を宣教していたパリ外国宣教会(男子修道会)のコール神父の要請によって、5人のシスターが派遣されたことに始まります。コール神父は熊本市の琵琶崎(島崎)にある本妙寺下で全国より集まり、生活していたハンセン病の人々を助けるために、ローマ教皇庁に支援を求めました。それに応えてマリ・ドラ・パシオン院長は5人のシスターを派遣しました。熊本修道院の始まりです。シスターたちは、ここに診療所(後の慈恵病院)・養老院・乳児院・孤児院を作り、社会福祉・教育・医療事業に献身しました。今では「慈恵病院」は「コウノトリのゆりかご」で著名になりました。

お わ り に                             

5月18日~20日、6年生は修学旅行に出かけます。他校にはない大変ユニークな修学旅行です。一人ひとりが自分の課題をもって歩みます。6年間共に過ごした友達との一生に一度の思い出深い楽しい旅となることでしょう。

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